翻訳と辞書
Words near each other
・ ウォーレン・ミアーズ
・ ウォーレン・ランドルフ・バージェス
・ ウォーレン・リヒテンシュタイン
・ ウォーレン・リビングストン・クロマティ
・ ウォーレン・ワージントン三世
・ ウォーレン国立公園
・ ウォーレン委員会
・ ウォーレン郡
・ ウォーレン郡 (アイオワ州)
・ ウォーレン郡 (イリノイ州)
ウォーレン郡 (インディアナ州)
・ ウォーレン郡 (オハイオ州)
・ ウォーレン郡 (ケンタッキー州)
・ ウォーレン郡 (ジョージア州)
・ ウォーレン郡 (テネシー州)
・ ウォーレン郡 (ニュージャージー州)
・ ウォーレン郡 (ニューヨーク州)
・ ウォーレン郡 (ノースカロライナ州)
・ ウォーレン郡 (バージニア州)
・ ウォーレン郡 (ペンシルベニア州)


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ウォーレン郡 (インディアナ州) : ミニ英和和英辞書
ウォーレン郡 (インディアナ州)[うぉーれんぐん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [ぐん]
 【名詞】 1. country 2. district 
: [す, しゅう]
 (n) sandbank

ウォーレン郡 (インディアナ州) : ウィキペディア日本語版
ウォーレン郡 (インディアナ州)[うぉーれんぐん]

ウォーレン郡()は、アメリカ合衆国インディアナ州の西部、イリノイ州との州境とウォバッシュ川の間に位置するである。19世紀初期にインディアン以外の開拓者が入ってくる以前は幾つかのインディアン部族が住んでいた。1827年にインディアナ州55番目の郡として設立された。2010年国勢調査での人口は8,508人であり、2000年の8,419人から1.1%増加した〔Quickfacts.census.gov - Pierce County - accessed 2011-12-06.〕。郡庁所在地ウィリアムズポート町(人口1,898人〔American FactFinder - Ellsworth, Indiana - accessed 2011-12-06.〕)であり、同郡で人口最大の町でもある。
州内でも最も田舎の郡の1つであり、人口では少ない方から3番目、人口密度は23人/平方マイル (8.9人/km2) である。郡内には4つの法人化された町があり、その総人口は約3,100人である。またその他に多くの小さな未編入町がある。郡内は12の郡区に分けられ、それぞれが地方レベルのサービスを行っている。
郡内の土地の大半、特に北部と西部の開けたプレーリーは農地になっている。州内でも生産性の高い農地である〔。南東部郡境に沿った川の近くは多くの丘陵、谷、水流があり、森も深い。郡内の雇用は農業、製造業、政府、教育および医療が多くを占めている〔。インディアナ州道4本が郡内を通り、他にアメリカ国道1本と鉄道路線1本が通っている。
== 歴史 ==
ウォーレン郡となった地域にヨーロッパ人が入って来る前の長い間、ここはマイアミ族キカプーインディアンの領土境界にあった。18世紀までに多くのマイアミ族がさらに南に移り、ウォバッシュ川の北はポタワトミ族が占有した〔Clifton 1913, pp. 205–206.〕。地域最初のインディアンではない開拓者はおそらくフランス系カナダ人のザカライア・シコットであり、1802年ころにキカプー族やポタワトミ族と交易を始めた〔Warren County Historical Society 1966, p. 4.〕。1811年、ウィリアム・ハリソン将軍がビンセンズから軍隊を率いて、ティッペカヌーの戦いに赴いたとき、シコットは斥候を務めた。ハリソン軍が後にウォーレン郡となった地域を抜けて通った道はティピカヌー郡の戦場に通じていた〔Warren County Historical Society 2002, p. 31.〕。米英戦争終結後、シコットはウォバッシュ川沿いで交易を再開した。インディアナ州は1816年に州に昇格し、シコットは1817年に後にインディペンデンスの町となった場所に丸太小屋を建てた〔Clifton 1913, p. 241.〕。他にも開拓者が入ってくるようになったのは1822年頃になってからだった〔Goodspeed 1883, pp. 36–41.〕。
ウォーレン郡は1827年3月1日にインディアナ州議会によって設立された。郡名はアメリカ独立戦争の初期、1775年のバンカーヒルの戦いで戦死したジョセフ・ウォーレン博士に因んで名付けられた。ウォーレンは将軍に任官されていたが、その発令がまだ有効ではなかったので、一兵卒としてこの戦いに参戦していた。短命に終わったウォーレントンの町が当初の郡庁所在地だった。これは1828年3月に郡政委員が選んだものだったが、翌年に郡庁を移す条例が成立し、1829年6月にはウィリアムズポートに移された〔。
初代郡庁舎はウォーレントンにあった丸太の家であり、初期開拓者の一人エノック・ファーマーの所有で、使用中のものだった。郡庁がウィリアムズポートに移されると、町の設立者ウィリアム・ハリソンの所有する丸太の家が庁舎となり、数年間は使われた。最初の庁舎として使うために建設された建物は、1835年に2,000ドルを掛けて完成した。さらに1872年、48,000ドルを掛けた新しい建物に代わり、三代目は新しく敷かれた鉄道の周りに成長したた街の新区画に1886年に建設された。この建物は1907年の火事で焼失し、1908年、四代目で現庁舎の建物が同じ場所に115,000ドルを掛けて建設された。
19世紀が進み、アメリカ合衆国のインディアン移住政策によって、インディアンはミシシッピ川の西に移住させられた。1830年、インディアン移住法が法制化され、この法はインディアナ州に住むポタワトミ族を直接対象にはしていなかったが、その移住に繋がる幾つかの条約が結ばれることになった。後にポタワトミ死の道と呼ばれる出来事の中で、移住を拒んでいた約860人のポタワトミ族が、インディアナ州からカンザス州への移動を強いられた。1838年9月14日、この集団はウィリアムズポート近くで宿営し、9月15日にはイリノイ州に入る前にウォーレン郡南西部で宿営することになった。カンザスの目的地に着くまでに40人以上の者が死に、その多くは子供達だった。そのうちの2人はウォーレン郡の2日目の宿営地で葬られた〔Warren County Historical Society 2002, pp. 31, 156–157.〕。
ウォーレン郡が作られたときに、ウォバッシュ川は交通や輸送に重要な存在だった。ザカライア・シコットは川を上り下りして交易を行い、アッティカ、ペリーズビル、ボルティモア、ウィリアムズポートといった町は川岸に近く設立されていたので繁栄した。1840年代、ウォバッシュ・アンド・エリー運河の運行が始まり、船による輸送の機会が広がったが、この運河の恩恵を受けた町は川の右岸(東側)にあった。この運河は南東のファウンテン郡側にあり、ボルティモアのような町はその結果として衰退した〔Warren County Historical Society 1966, pp. 56–57〕。ウィリアムズポートやペリーズビルなどの町は、運河から川に引く横道を付けて、運河の交通を利用できるようにした〔Warren County Historical Society 2002, p. 163.〕。1850年代に鉄道の建設が始まると、運河が時代遅れのものとなり、水路が無かった町にも輸送を可能にした〔Warren County Historical Society 1966, p. 134.〕。それでも運河は1870年代初期まで使われ続けた〔Clifton 1913, pp. 130–131.〕。
ウォーレン郡を通る最初の鉄道路線は、1856年に建設されたトレド・ウォバッシュ・アンド・ウェスタン鉄道(後のウォバッシュ鉄道)の一部だった。この路線はウィリアムズポート近くで郡内に入って西進し、1857年には西の州境にあるステートラインシティまで延伸された。この沿線ではウェストレバノンが唯一の町だったが、線路は1マイル (1.6 km) ほど町を外れたので、ウェストレバノンの町自体が駅に近づくために北に移された。1869年、郡南部のマウンド郡区を通ってインディアナポリス・ブルーミントン・アンド・ウェスタン鉄道が建設された〔Goodspeed 1883, p. 49.〕。それから数年後の1872年、シカゴ・ダンビル・アンド・ビンセンズ鉄道(パンプキン・バイン鉄道と呼ばれた)がイリノイ州ビスマークからウォーレン郡南東部を通って建設された。これはコビントンの南にある炭田から石炭を運ぶ目的があった。1870年代後半に起きた炭鉱労働者の暴動が石炭の流れを止め、さらに鉄道会社財政状態が悪かったこともあって、1880年までに鉄道路線の多くは廃止され、残った所も数年のうちに撤去された。これと同時期の1880年代初期、シカゴ・アンド・インディアナ石炭鉄道が郡内を南北に抜ける路線の運行を始めた。これが後にシカゴ・アンド・イースタンイリノイ鉄道の一部になったが、1920年には財政的な理由で廃線になった。1921年に新しい会社がシカゴ・アッティカ・アンド・サザン鉄道として運行を再開したが、この新会社も財政的な問題を抱え、1946年には軌道が撤去された〔Warren County Historical Society 1966, pp. 11–12.〕。これとは別に1903年に、ニューヨーク・セントラル鉄道の一部が地域に建設された。南西のダンビルから郡内に入り、北に向かってスローンやスチュワートの小さな町を抜け、北のベントン郡に入るものだった。1970年代にこの路線はペン・セントラル鉄道に、さらにコンレールのものとなり、1990年代に運行が止まって、線路は外された。ただしスチュワートから北の部分は残されてビーライン鉄道となり、スチュワートの穀物加工施設が利用している〔Warren County Historical Society 2002, pp. 16–17.〕。
ウォバッシュ・キャノンボールはウォバッシュ鉄道が走らせた旅客列車であり、1949年からミシガン州デトロイトミズーリ州セントルイスの間を走った。1964年9月19日、南行きのキャノンボールがジョンソビルの踏み切りで、コンクリートブロックを積んだトラックと衝突した。トラックの運転手は即死したが、列車が遅延しただけで、他に死者は出なかった。列車の方では機関が火を噴いたときに機関士と釜焚きが重傷を負い、50人の乗客のうちの約半数が負傷した。1,000フィート (300 m) 以上の線路が剥がれ、被害総額は50万ドル以上と推計された。キャノンボールの最終運行は1969年だった〔Warren County Historical Society 2002, pp. 114–115.〕。
ウォーレン郡の人口は19世紀後半を頂点とし、20世紀に入って減り続けた〔。これは中西部の田園部の多くと同様だった〔
〕。1920年代に自動車が多用されるようになると小さな町の役目が無くなり、さらに1930年代の世界恐慌に追い討ちを掛けられた〔
〕。1940年代から1950年代の第二次世界大戦と経済復興により、人々は地域の成長する都市でより良い仕事に就くようになり、これがさらに小さな町を衰退させた〔。1980年代には作物価格の低落、農夫の大きな負債などの経済的な要因で「農業危機」が起こり、人口はさらに減少した〔
〕。
ファウンテン郡とウォーレン郡を対象にした最初の郡祭は1853年9月6日と7日にインディペンデンスで開催された。その2年後に祭りはファウンテン郡で開催され、ウォーレン郡の農夫の参加が減った。1856年、郡北部の農夫がパインビレッジの東で祭を開催し、これが1864年まで毎年続けられた。ウェストレバノンが次の開催地となり、1883年まで続いた。この町の北西にある祭会場が発展していった〔Goodspeed 1883, pp. 68–69.〕。後に郡祭は郡庁所在地のウィリアムズポートで開催されるようになり、これが今日も続いている。現在は4H祭となっている〔Warren County Historical Society 1966, p. 144.〕。
郡内の小さな町であるクラマーが国際的な評判を呼んだことがあった。1890年に25万ドルを掛けて建設されたホテル・マッドラビアが、近くにある癒し効果のあるとされる天然泉に世界中からの訪問者を惹きつけた。ジェイムズ・ウィットコーム・ライリー、ジョン・L・サリバン、ハリー・ラウダーといった著名人がこのホテルに滞在したが、1920年に火事で焼失した〔Warren County Historical Society 1966, pp. 157–159.〕。後にこの泉の水はインディアナポリスを本拠にするキャメロン・スプリングス会社によって瓶詰めされ、販売された。この会社は2000年に約1,050万ドルでペリエ社に買収された〔
〕。2008年時点でも泉水は販売されており、様々な名前で市場に出ている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ウォーレン郡 (インディアナ州)」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.